最後から二番目の真実

主にミステリの感想

バイバイ、エンジェル

バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)
(1995/05)
笠井 潔

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アパルトマンの一室で、外出用の服を身に着け、血の池の中央にうつぶせに横たわっていた女の死体には、あるべき場所に首がなかった! ラルース家を巡り連続して起こる殺人事件。警視モガールの娘ナディアは、現象学を駆使する奇妙な日本人矢吹駆とともに事件の謎を追う。日本の推理文壇に新しい一頁を書き加えた笠井潔のデビュー長編。

推理小説としては非常にべたなストーリーで進む本作。

灰色の冬のパリで起こる首切り殺人。語り手のナディア・モガールは父親がパリ警視庁の警視ということもあって首をつっこむ。不思議な雰囲気の日本人矢吹駆を引っ張り込んであれやこれやと引っ掻き回す。

そんなありがちなプロットですが、この作品をそこいらの凡作と一線を画させるのはその文体、探偵、思想。硬質な文体は灰色の沈鬱なパリの雰囲気にぴったりな上に、唯一の色彩である赤(血の赤、緋文字、それに赤い死)を際立たせます。

そしてなによりの特徴である「現象学」的推理。「直観」(not直感)で事件の真相が見えるというもの。探偵の「犯人がわかっていながら知らん振り」「ご都合主義もいい加減の我田引水な推理」といった推理小説に批判的な言説を黙らせるために入れたとしか思えない推理法です。

「どんな科学上の発見も、たくさんの事実の観察と妥当な推論によって達成されたというわけではない。コペルニクスは初めから地球の公転を直観していたのだし、メンデルは遺伝の法則の存在を直感していた。……現象学は、想像上の名探偵であろうと実際の科学者や研究者であろうと、あるいはごくありふれた普通の会社員や主婦であろうと、すべての人間が無自覚のうちにはたらかせている本質的直観という思考の操作を、哲学的に反省し厳密で普遍的な方法にまで仕立て上げた」
「でも、直観なんて、何か非合理であてにならない気がする」
「いや、ちがう。正しい直観がまず初めに与えられているからこそ、無数にありうる論理的な解釈の迷路を辿って真実に到達できるのだということに目を閉じた時、一方では観察、推論、実験がそれ自体で真理への道であるというような近代的精神の自己欺瞞が生まれ、他方その対極に、直観をなにか非合理で神秘的なものであるとする発想が固定化される。現象学的に考えるということは、つまり君がマチルドの父親やその手紙について考えるようなことをなにも考えないということなんだ。君は観察し、材料を論理的に配列しようと努める。しかし僕は……」
「直観するわけね」

こんなことを言われたら黙るしかないですね。人間性としても「今も死んでいく大勢の孤児たちを見ても『すべてよし』というのね」といった様子なので「殺人犯の好きなようにやらせる」探偵の倫理観もスルーしている。

こういった非人間的な矢吹駆(彼の部屋には家具がほとんどなく、食事は粗末な野菜くずを1日1回だけ!)が、しかし、非常に人間らしく感じるのはラスト、犯人との思想的な対決での痛々しい叫びがあるからです。この思想対決はぜひ読んでほしい。革命の持つ逆説とその崇高さが、そのために引き起こす虐殺を矢吹駆が如何に憎んでいるかがわかります。これは作者の思想でもあるのでしょう。ここまで熱い叫びはなかなか読めない、稀有な、この作品を素晴らしいものにさせています。

どこにも溢れている「無名の死」。「私は私の死を死ぬ」ことは最早現代では不可能である。私の死はテレビの向うの死や見知らぬ人の死と区別は出来ない。誰が死んだか判別出来る時代はもう存在しない。あるのは冷え冷えとする死体の山だ。この時代に特権的に死を演出する推理小説で何が出来るのか。何を見出すのか。灰色のパリの街のような現代に何が……

一方で推理小説としての部分はどうか?これがかなり丁寧。直観なんていうのでかなり飛躍した推理が語られるかと思ったら意外に丁寧な推理が語られます。首切りの論理は非常に美しい。本質直観と推理との幸せな結婚と言えると思います。「赤」に彩られた死が美しく解体されていきます。

ただ思想部分、ミステリ部分ともに傑作ですがこの2つを結ぶ部分が良くない。あまりに断絶しているのでそこはデビュー作らしい若書きというにも厳しいかな。

他のレビューでは

八方美人な書評ページ

「人間は、闇のなかに潜む暗い大いなるなにかに操られる人形なのだ」と矢吹駆は語る。だが、その事実を認めたうえで、それでも生きようと、生きる意味を見つけようとあがくからこそ人間なのだ、とも言える。けっして明るくはない人間の営みの色にふさわしい灰色の街に、まるで何かを訴えるかのように飛び散った真紅――はたして矢吹駆は、そこにどのような本質を見出したのだろうか。

Your Eyes Only,

さて、「バイバイ、エンジェル」という作品を読んで、私が考えたというか勝手に連想したことというのは以上のようなことでした。純粋な推理小説としては、それほど出来が良いとは思えない、先行する推理小説を乗り越えているとはまったく思えないのですが、それでも作者が読者に伝えたいメッセージを作品全体が示しているという点で非常に素晴らしい小説だと感じました。また、その作者が読者へ伝えたいと意図しているメッセージもまた素晴らしいと思います。