最後から二番目の真実

主にミステリの感想

探偵小説は「セカイ」と遭遇した -笠井潔 第Ⅱ部読み始め

探偵小説は「セカイ」と遭遇した

探偵小説は「セカイ」と遭遇した

ようやく読み始められました。

 第二部は「容疑者X論争」に関する物となっています。
 「容疑者X論争」は近年では珍しく多くの作家、評論家、読者を巻き込んだ論争になりましたがその論争の場が基本的に、二階堂氏のwebページとミスマガミステリーズ!などの文芸誌ということもあり余り発言がまとめて読むことが出来ません。興味を持っても図書館に通いつめたりしないといけないのは少々面倒です。

 で、この本ですが「容疑者X論争」でもあれこれ口を出していた笠井氏の発言がまとめて読めるので「容疑者X論争」が気になる人は読む価値ありだと思います。まぁまだ自分は最初の一つだけしか読んでいないのですが……

 さて、ごちゃごちゃとした前書きは置いておいて、その第Ⅱ部最初の「『容疑者Xの献身』は難易度の低い「本格」である」についてですが、これはかなり喧嘩腰な書き方になっています。文章のあちこちから「これくらいのトリック気づけよな」という雰囲気がプンプンでてます。この物言い自体は正直どうでもいいです。口が良かろうが悪かろうがどうでもよく、評論の中身がいいかどうかが重要な訳ですが、これは分かりやすく解決へといたる道筋(作中のヒントとなる箇所)を示しつつ難易度を論じているので良い評論と言えるのではないでしょうか?


 むしろここで気にかかったのは「推理」の使い方です。「推論」と明確に分けて本文では使われているのですが、正直文中の使い方ではまだ「推論」レベルです。「推論」レベルの物に対して「推理」と言ってしまっているのですが、ここからが本題ですが、この使い方はおそらく意図的にやっているでは?と思います。 なぜそう思うか? 最後「人間の自由意志が介在する世界で数学的な論理必然性を期待することなど、原理的に不可能である」と書いているからです。


 もっと話を進めると、『なぜ鍵カッコつきで「推理」を使ったのか』がポイントとして浮上してきます。この場合「推理」は探偵小説的な推理であることは明白なのですが、それを使えば謎を解くことが出来ます。
 つまり「探偵小説的推理をより厳密に適応させていくとどうなるのだろうか」という視点がこの時点で読み取れるようになるわけです。時期的に笠井氏は「青銅の悲劇 瀕死の王」を連載していた時期ですから、この視点はすでに持っていたと思います。その意識をもって「容疑者Xの献身」を読んでいれば二階堂氏の「本格ではない」発言に異を唱えたくなったのは理解できます。これは問題意識の差(数学的推理と探偵小説的推理の違いがあるかどうか)が存在し、そのためにこの論争で各人の意見の噛み合いの無さにつながってるのではないだろうか?と思います

08-01-12細部を書き直し